CALVA STORY

30数年間、多くの人々に愛された大船「エミール」。

その精神は両親から息子たちに引き継がれ、生まれ変わっていく。

旧エミール外観
OLD ÉMILE
OLD ‘ÉMILE’
当時の良一(真ん中)
当時の良一(真ん中)
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ORIGIN / 1974

エミールと家族

エミールと家族
OLD ‘ÉMILE’

1974年。長男・聡の誕生と同じ年、 地元大船の街に、小さなケーキ屋さんができました。

お店の名前は「エミール」。

当時としては珍しく、ガラス越しに職人さんがケーキを作っていました。 小さいながらも繁繁し、2店舗目を出した頃、新しい家族が増えました。 次男・二朗の誕生です。

優秀な職人さん達と共に、両親は忙しく働きました。 お店をリニューアルさせた頃には、2人とも大きくなっていました。

2人が社会に出る頃、エミールは大船駅前に新しいお店を出すまでになりました。 地元大船では評判のお店になり、沢山のお客様で賑わっていました。

父・良一はお店だけではなく、ホテルの婚礼やデパート催事にも力を入れていました。

そしてオープンして30年という歳月が流れ、 多くのお客様に惜しまれつつ、エミールは閉店の時を迎えました。

30数年間、多くの人々に愛されたエミールはなくなりましたが、 その職人としての誇りと精神は、両親から息子たちに引き継がれ、 新たなる物語へと生まれ変わっていくのでした。

02

SATOSHI / BOULANGER

サトシのモノガタリ

聡のフランスでの歩み

聡は高校卒業後、東京プリンスホテルへ入社、製菓部製パン課に配属されました。辛くも充実した日々を送っていましたが、一人、二人と先輩方が次のステップに進むため旅立っていきました。

先輩たちのまねをしても彼らに追いつけないと考えた聡は海外に行くことを選択しました。もちろん知り合いもいない、言葉もわからない・・・突拍子もないことでしたが、仕事だけではなく、沢山のことが吸収できる気がしてワクワクしました。1998年1月31日フランスへと旅立ちました。

聡が選んだのはパリなどの大都市ではなく、ノルマンディー地方の小さな都市CAEN(カン)と言う街でした。

初めての海外。誰も自分のことなど知らない世界。言葉の通じない世界。すべてが自分の想像以上で自分の小ささを思い知る毎日でした。しかし、ノルマンディーの人たちの温かさに助けられ、少しずつ生活にも慣れてきました。

語学学校に通い言葉を学び、自分と同じように何かを求めてフランスへ来た多くの外国人たちと仲良くなり、いろいろな考え方や価値観を学びました。友人を訪ね、他の国へ旅をしたり、ヨーロッパを巡る一人旅に出たりとたくさんの経験をつむことができました。

そして、幸運なことに仕事をすることもできました。フランス・イタリア・スイスに接する標高1000mにある町「CHAMONIX(シャモニー)」です。モンブランの麓にあるこの町の「SAINT-HUBERT」(サン・ユベール)というパン屋さんで働きました。小さな町でしたが毎日1000本から2000本のバゲットを焼くほどのお店でした。

夜中の12時から仕事を始め、毎日沢山のパンを焼き続ける日々。地方の見本市に参加した時には新聞にも取り上げられました。日本人はあまり見かけない地方だったので皆に可愛がられました。気の良い仲間と働いたこの期間はとても充実した日々でした。

1999年7月 帰国。もう一度フランスへ戻るため以前働いていた東京プリンスホテルでアルバイトをしていたときに先輩から1本の電話をもらいました。「フランス料理界の巨匠・三國清三氏が丸の内に新しいレストランを出す。そのレストランにはパン屋さんもあって、パン屋さんのシェフを探している。やってみないか?」と言うものでした。

色々悩んだ末チャンスだと思い、三國シェフのプロデュースするカフェとレストランの複合店「ミクニ・マルノウチ」にシェフ・ブーランジェとして参加することを決めました。25歳の聡にはハードな仕事で何度となく挫折しそうになりましたが、先輩や仲間の助けもあり何とかやり遂げることができました。

1999年12月「ミクニ・マルノウチ」のオープンから2006年6月のクローズまでの6年半。辛い事ばかりでしたが、大切なものをたくさん学ぶことができました。

その後、四ツ谷にある本店「オテル・ドゥ・ミクニ」に移り約1年半勤めた後、いよいよ独立に向かって準備する為、退職しました。

その後は準備をしながら東京・有楽町にできたホテル「ザ・ペニシュラ・トウキョウ」でオープンから3ヶ月間ヘルプをしたり、インドネシア・ジャカルタにオープンするパン屋さんのプロジェクトに参加したりしていました。

数々の経験をつみ、独立の夢に向かって歩み続けてきました。

03

JIRO / PÂTISSIER

ジロウのモノガタリ

フランスで仲間たちと過ごす田中二朗

二朗もまた父親の影響を受けてパティシエの世界に入ることになりました。パティシエという仕事に夢を抱き、高校卒業後、兄 聡と同じ東京プリンスホテルに入社、製パン課に配属。

高校まで野球をやり体力には自信のあった二朗ですが、あまりのハードな仕事に体がついていけなかったのです。先輩や自分の同期が次々と辞めていく中、なんとか必死に頑張り、一年が過ぎ、その後半年が過ぎ、製菓部に異動しました。

数日後、製菓長に呼ばれ「チョコレートのコンクールやれよ」と言われ、気持ちが高ぶりました。まさか自分がそんなことを言われるとは思いもよらなかったからです。

「このチャンスを絶対にものにしよう!」と考えた二朗はパン屋の仕事を続けながら、先輩方に教えてもらい来る日も来る日もコンクールに没頭しました。

結果、入賞できず、自分の力のなさを思い知ったと同時にパティシエという仕事の魅力や奥深さなどを体感し、生涯この仕事がしたいと思いました。

その翌年、飴細工部門内海杯ジュニアコンクールで金賞を受賞。

この時、父の後を継ぎたかった二朗は町場のお菓子屋さんで働きたいと思い始めていました。

そんな時、先輩である川村英樹氏がフランスから帰国し、「一緒に店をやらないか?」と誘われ、感激しました。当時、川村氏は二度の世界大会で優勝していて、自分が尊敬する一番の先輩でありました。

2001年11月 吉祥寺に「パティスリーアテスウェイ」のオープニングスタッフとして勤務。

6年弱にわたり本格的にパティシエとしての基礎、ホテルでは学べなかった接客や経営、店作りなど様々なことを学びました。

2007年7月 新たな挑戦として自分を試すため海外フランスへと旅立ちました。

仕事を決めずに渡仏した二朗はパリの知人の家を訪ね、そこでタイミングよく仕事の話をもらいました。パリ郊外「ボンクロッソン」という静かな町のパティスリーで約一ヶ月働きました。その後、全土を旅しながら、ノルマンディーの地方都市 ルーアンにある「パティスリーショコラトリージュリアン」と出会うこととなります。

ここで仕事がしたいと思った二朗はジュリアン氏を訪ねました。しかし、当然簡単には受け入れてもらえず、断られました。その二日後、もう一度頼みに行ったが、ここでも断られ、それでも諦めず、その三日後もう一度訪ねました。

そこでシェフが初めて話を聞いてくれることとなり、片言のフランス語で自分の思いをぶつけ外国人初のスタッフとして迎え入れられることとなりました。

始めは鉄板拭きや洗い物、型の準備、りんごの皮むきなど見習いの仕事をやり続ける中、二朗はいつチャンスが来ても大丈夫なようにシェフの動きや周りの仕事を観察していました。

勤務から一週間後、シェフに「jiro、飴細工はできるか??」と聞かれ、「日本でやっていた」と答えると、シェフの口から「何か作ってみろ」と言われ、一日ルーアンの町を歩き、イメージを固め飴細工を作ったところ、その技術をシェフに認められ翌日からマカロンやショコラなどとても重要な仕事をまかされることとなりました。

パンとスタッフの集合写真
04

ENCOUNTERS

人・技術・つながり

ちょうどその頃、鈴木謙太郎氏が南仏プロヴァンスでの修行を終え、ルーアンで二朗と再会することになりました。その後一ヶ月間二人は近い将来実現するであろうお互いの夢について毎晩深夜まで語り明かしました。

私生活の方でもようやく海外生活に慣れ始め、職場以外でも多国籍の友人に恵まれ、その国々の文化の違いなど日本に居た時には体験することができない貴重な時間を過ごすことができ、人間的にも大きく成長することができました。

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CONVERGENCE / 2009

CALVAの誕生

CALVAの誕生 CALVA 大船本店 店内

2008年7月 日本帰国

帰国後、二朗は先に帰国した謙太郎がシェフを勤める葉山ホテル音羽の森にて独立する間の準備期間として勤務することになりました。

自分たちのお店のイメージを固めるため、二朗がフランス滞在中に聡が訪れ、2人で沢山の土地をまわり友人たちとの再会を果たしました。

多くの出会いの中で一番強く心に残ったのは二人が過ごしたフランス・ノルマンディーでした。

ノルマンディーの特産物はリンゴ、そのリンゴから作られた蒸留酒が「カルヴァドス」。地元では「カルヴァ」と呼ばれ愛されています。

言葉も文化も違う異国の自分たちを温かく迎えてくれたノルマンディーの人たち。彼らへの感謝とあの時の気持ちを忘れぬようにという想いを込めて、店名を「CALVA(カルヴァ)」としました。

話し合いの結果、建物から新たに作り直すことに決まり、それぞれが準備にかかりました。まずは建物の外観です。聡も二朗もフランスで暮らしていたこともあり、デザインは5階建てのヨーロッパ調に。

フランスの建物には住所を示すプレートが貼ってあります。自分たちの建物にもそのプレートを貼り付けることにしました。「PLACE EMIRS」

聡と二朗にはひとつの考えがありました。パンとお菓子はある。足りないのは・・・料理!!

せっかくビルを建ててお店をやるのだったら、そのビル内にレストランがあったらもっと素敵じゃないだろうか?ひとつの建物でパン、菓子、そして料理も楽しめたら?

二人のこの思いを実現するのにぴったりの男がいました。鈴木謙太郎。

聡がミクニ時代に一緒に働いていた料理人です。ミクニ退職後に「葉山ホテル音羽の森」の料理長を勤め、渡仏。南仏で修行中でした。同時期にフランスにいた二朗は謙太郎に自分たちの夢を語り、意気投合。そして、3階に「シェ・ケンタロウ」が入店することが決まったのでした。

2007年12月、謙太郎が帰国。2008年7月、二朗が帰国。

いよいよ3人がここ大船に集結しました。

ビルの建設も始まり、どんなお店にするか3人で打ち合わせの日々。それと平行して、とても意識の高いすばらしいスタッフが一人また一人と集まり始め、ようやく3人の夢の舞台が整いました。

オープン前日。「お客さん来るかなぁ・・・」走り続けてきた3人はこの日ばかりは緊張と不安で眠れず、語り合った。「そろそろ行こうか・・・」

2009年8月1日。僕たちの地元、ここ大船にBoulangerie Patisserie CALVAをオープンさせました。

CALVAのショコラづくり

PHILOSOPHY

KEEP IT “DELIGANT”

「ショコラは、ただの甘いお菓子ではない。それは食べた人の人生に溶け込み、記憶に残るものでありたい」ショコラティエ 田中二朗

知れば知るほど、ショコラの奥深さに魅了される。そこには無限の可能性があり、まだ見ぬ味の扉がある。

二朗は、ショコラの可能性を拓き続けてきた日本を代表するトップショコラティエ。20年以上世界の第一線で活躍し、技術を磨き、感性を研ぎ澄ませてきました。

こだわりのショコラづくり

彼のショコラには、作り手や食材との出会いが息づいています。産地へ足を運び、作り手の声を聞き、心から納得したものだけを選んでいます。

また、ショコラは場合によっては卵・乳・小麦を使わずにつくることも可能。だからこそ、CALVAのコンセプト「デリガント」にふさわしい。ただおいしいだけでなく、健康面でもすべての人に寄り添うものをつくり続けています。

ONLINE BOUTIQUE
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PRESENT DAY

そして現在

そして現在

2009年のオープンから時を経てもなお、私たちの原点である「大船本店」は、変わらずこの街の温かさに支えられながら、毎日香ばしいパンと美しいお菓子を焼き続けています。

やがてカルヴァの挑戦は、古都・鎌倉の歴史と深く溶け合っていきました。文豪・川端康成が名付けたとされる料亭の跡地に、日本の伝統と西洋の技術を融合させた「ショコラトリー カルヴァ 北鎌倉 門前」をオープン。さらに、大船本店の2階を贅沢なカフェスペースへと改装し、焼きたての美味しさをその場で五感を通して楽しんでいただける空間を創り上げました。

私たちの歩みは、大船や鎌倉の地だけに留まりません。大船のフードタイム伊勢丹への出店を経て、カルヴァの技術は世界へと轟くことになります。

2022年、フランスで開催されたチョコレートの世界最高峰の大会「ワールド チョコレート マスターズ」にて、田中二朗が日本代表として出場。世界各国の並み居る天才たちを圧倒し、味覚部門において4部門中3部門で最優秀賞を獲得するという、日本人初の歴史的快挙を成し遂げたのです。

世界を魅了したその至高の味覚を携え、2025年8月、カルヴァは次なる大舞台へと進出しました。ジェイアール名古屋タカシマヤの地下1階に、和の文化を世界へ届ける新ブランド「北鎌倉 門前 / MONZEN」を堂々オープン。

パン、菓子、ショコラ、料理。あの夜、緊張と不安の中で語り合っていた3人の夢は、今もなお進化を続けながら、より大きな未来へと向かって鮮やかに歩み続けています。